小河内の地勢と暮らし
 

 小河内小学校区は、広島市街地から約30キロメートル北方の安佐北区安佐町の北西部に位置しています。東は、牛頭山(うしずやま 高さ672.6b)に連なる高さ700メートル近い山々や、広島市青少年野外活動センター付近を境に安佐町鈴張・飯室と、西は、滝山(たきやま 高さ692.7b)に続く山々を境に安芸太田町と、南は、太田川上流を隔てて安佐町久地と、北は、水田地帯や高さ400メートル以上の山々を境に北広島町と接しています。

 校区は自然豊かな中山間地域で、イノシシ、シカ、ニホンザル、キジ、ヤマバト、ウグイス、マムシ、オオサンショウウオ、アマゴ、ハヤ、ゲンジボタル、ノコギリクワガタなどの動物や、ヤマザクラ、シュンラン、カザグルマ、ヤマブキ、レンゲツツジ、テッセン、ネムノキ、ナデシコ、キキョウ、ホタルブクロ、ヤブコウジなどの植物が見られます。

 校区の中央を、ほぼ北東から南西に向かって太田川の支流の小河内川(長さ12.5キロメートル)が流れており、小河内川にはその支流がそそいでいます。それらの川によって枝のように伸びたいくつもの谷が形成され、そこに田畑が開かれ、石積みの棚田も多く見られます。小河内川に沿って、幹線道路「主要地方道38広島豊平線」が通っており、集落は道路のそばや田畑の周り、山の麓などに多く見られます。かつては、太田川本流に沿ってJR可部線が通っており、小河内川との合流付近の小浜に「小河内駅」があって地域にとっては大切な交通機関でしたが、平成15年秋に、惜しまれる中、可部〜三段峡間が廃止となりました。

 産業としては、昭和40年代ごろまでは、米作中心の専業農家が多く、酪農や薪作りを営む家も少なからずあったほか、干し柿やあわし柿(あおし柿)が特産物でした。現在は、高齢者を中心とした米作や野菜作りが営まれ、三世代同居であっても、若い人々は校区外に働きに出て、休みの日などに農業を行う兼業農家がほとんどです。

 昭和30年代半ばからの高度経済成長による都市部での労働需要増大の中、小河内では、昭和38年の豪雪を契機として過疎化が進み始めました。そして、薪や炭から石油、ガスへのエネルギー源の転換や、第一次産業の衰退、都市部の生活へのあこがれなどもあって、若年層や企業の経営者などが他地域へ流出していき、過疎化に拍車がかかっていきました。

 その過疎化を食い止め地域を発展させるために、「小河内むらづくり推進協議会」が中心となって様々な事業や要望を行っています。また、各種団体の活動は活発で、300戸に満たない地域とは思えない活気があります。中でも、4月中旬から下旬の「芝桜祭り」や、11月上旬に、200年近くも続く広島市重要無形文化財「吹囃子行事」が行われる「養山八幡神社の祭り」は、地域あげてのにぎやかな行事で、その時は、田楽団や昭和劇団も人気の的です。また、都市部の人たちとの交流を図りながらクマの被害を防ぐために、平成17年から始められた10月下旬の「柿もぎ隊」は、いつも100人の定員をはるかに超える応募がある人気の行事となってきました。

小河内の歴史

小河内と縄文文化時代(安佐町史より抜粋) 安佐町では現在のところ縄文時代の遺跡として確認されたものはないが、小河内・明見谷から出土したと伝えられる磨製の石斧がある。明見谷は太田川の支流である小河内川から海抜450メートルの高さまで、最大幅400メートルにわたって棚田が開けている一帯で、小河内では最も水田が多いところとなっている。
 昭和15年、小河内村が現勢誌を残すために村内の古史跡を調査したおり、五輪塔がまつってある堂原の板状の石囲いの小さな祠の中でこの石斧を発見した。その後昭和43年保存用の小箱を整備し、安楽寺の納経堂で保存されるようになったものである。
 石斧は楔形(くさびがた)をし、長さ24.5センチメートル、最大幅6.8センチメートル、厚さ3センチメートルの大型の磨製石斧である。
 同じく安佐町鈴張でも昭和38年に発見されている。

小河内と弥生文化時代(安佐町史より抜粋) 安佐町における弥生時代の遺跡・遺物は、追崎(おっさき)遺跡のほかには、飯室で表面採集した弥生式土器片だけであり、今後の検索が必要である。追崎地区では太田川が北へ蛇行して、その突端に海抜100メートルの高さで、東西700メートル・南北300メートルの耕地が開けている。追先遺跡はその中央部に位置している。
 昭和32年4月、同地区の住民が灌漑用の配水管を埋設する溝を掘っていたところ、土中から多くの石器や土器などが発見された。出土した遺物は弥生式土器、石斧、ナイフ型刃器、砥石、土製投弾、土製人面などである。
 安佐町ではこのように祖先が、鈴張川やその支流野原川の氾濫とたたかいながら、これらの水を利用して小規模な水稲耕作を行ったり、南向きの山の斜面をきりひらいて畑作耕作の場としていったことを考えることができるのである。安佐町を流れる小河内川・後山川・吉山川・高山川など、太田川の小支流の流域でも、同じように耕作が展開されたことだろう。
 しかしながら、今のところ遺跡として確実に説明できるものは追先遺跡にはない。

 小河内と古墳時代(安佐町史より抜粋)  安佐町では、現在のところ町内に古墳の存在を確認できる資料が皆無であり、古墳時代の安佐町を検討することができない。このことは、今まで述べてきた安佐町周辺の町村の状況とあわせて考えるとき、古墳がこの町内の各地域で、まったく作られることがなかったとすることにはならないであろう。可部町のような群集墳を築造する条件の有無は別としても、加計町や本地などのように、小数の古墳が作られる条件があったことは十分に考えられるのである。そのような古墳は、以後の長い安佐町の歴史の中で、種々の事情によって破壊されたことも考えられる。今後、須恵器の採集その他、古墳の痕跡の検索を綿密に行っていくことが必要である。
 いずれにしても6世紀中ごろから7世の前半・古墳時代の後期、加計町・千代田町本地・広島市沼田町・可部町・佐東町など、安佐町の周囲で、家族墓的な横穴式石室を営むことができた有力な新しい階級としての、古代家族の存在を知ることができる。安佐町もこのような時代の動きと無関係ではなかったとおもわれるのである。