小河内氏
牛頭城物語
 小河内の歴史と言えば、牛頭城であり、小河内弥太郎の名前がまず浮かんでくる。
そして、城主弥太郎が18歳でこの世を去った西福寺の悲しい物語も・・・。
 郷土史研究家、古川重行氏の著書“小河内氏”より、氏の承諾を得て、一部抜粋させていただくことにする。

第1話 牛頭築城
 安楽寺略縁起に「過ぐる大永年間(1521〜27)、加賀の城主富樫正親の三男、富樫又左衛門が牛頭城を築城したときに随伴してきた禅僧、座元禅師が谷河内の道管屋敷に一宇の草庵を結んだ」・・・これが安楽寺の起源であるという。
 当時小河内氏は銀山城主、武田氏の勢力下にあり、特に武田氏の有力武将であったことなどを考えると、小河内氏の居城をなぜに富樫叉左衛門が築いたと言うのであろうか。
 これについては次のように考えてみた。
 1488年に加賀において一向一揆が起こり、城主富樫正親は滅ぼされ、女房子どもは隣国若狭に落ち延びたのかもしれない。若狭の守護は武田氏の一族であり、小河内氏も移住していたと思われる。若狭に落ち逃れた叉左衛門もやがて30年の歳月を経て、30歳余りとなり、富樫家をつぐにふさわしい武将になっていたであろう。
 この頃、安芸の武田氏はたびたび大内軍の侵攻を受け、佐東の野に合戦が繰り広げられた。
 陰徳太平記によれば「天文2年8月10日、武田光和は高松城主(現在の三入辺り)熊谷信直を打たんと銀山城を出て、1000余騎を二手に分け、三入高松城に押し寄せた。横川表には伴五郎を大将として800余騎、搦手は光和大将として200余人、馬より下りて山路を攻め上る。その軍に小河内大膳亮、小河内左京亮清信、小河内修理之亮等頑強に力戦したるも、小河内一族7人ことごとく討ち死にせり。」とある。
 横川表の合戦で小河内一族が討ち死にしたため、時の家老鈴木伊賀の守、喜多山弾正等が相計り、銀山城主武田光和に請いて、同人の弟である6歳の幼児弥太郎を小河内13代目の城主としてもらい受け、鈴木伊賀の守が後見役になったといわれるが、33歳の兄と6歳の弟は余りにも離れすぎており、武田氏にしても光和の死後、弟がいればほかより養子を貰い受ける必要もなかったはずと思われる。
 (中略)
 実子のないまま死んだ武田光和の後をついだ信実は、陰徳太平記にいうように光和の甥ではなく、若狭の武田氏から迎えたものである。弥太郎もまた、若狭の武田から迎えられたのではあるまいか。銀山城には信実とともに弟九郎が来ており、この九郎こそ小河内弥太郎と考えられる。
 弥太郎が6歳の幼少であったことなどを思うと、当然守役が同伴していたことも考えられ、これが富樫又左衛門であったかもしれない。富樫又左衛門は大内や毛利のはざまに孤立した武田の一族として小河内氏の再興を計らねばならなかった。そこで、銀山城を指呼の間に望み、山縣一帯をへいげいする牛頭山頂に城を築き、武田氏とのいっそうの緊密を図った。

小河内小学校と牛頭山 古川氏のかかれた牛頭城想像図

第2話 小河内氏の滅亡
 小河内弥太郎が元服し、実質的城主になったとき、「兄より高きところに居城しては忍びず」と、藤之城を築き牛頭城を降りた。
 当時小河内氏は、吉木の城主笠間氏と不和を生じていたため、笠間氏は本地の城主や阿坂の城主と謀議を計り、弥太郎や鈴木・喜多山等家老職を西福寺まで呼び出して会談中に、藤之城に火を放った。
 弥太郎は城の急変を聞き、直ちに城に上ろうとしたが、家老が「今、味方は不用意にして、多勢の敵にあたること、末代までの恥辱を受けること火を見るよりも明らかなり。よってこの場において切腹して果てることこそ武士の面目ならん。」と西福寺の大戸を用意させ、その上にて潔く切腹し、鈴木伊賀守介錯せりと言う。
 老齢の喜多山檀正およびぞうり取りもこれに殉じたという。
 鈴木伊賀守は、主君弥太郎および殉死した二名の首を持って登山し、地中に穴を掘り、首を埋め墓石の代わりに松の木を植えおいたと言う。


第3話 本郷の城跡
 小河内でもあまり知られていないが、本郷に城山という地名がある。ほかにも「馬乗ケ駅」「吊井の段」「殿ケ畑」などの地名も残っている。これについては、築城今一歩というときに、角一本の怪物がでて、以後工事を中止したという。これについて推察すれば、小河内氏一族といえば横川合戦においても7人が討ち死にしているところから、城主を中心にその一族が数部落ずつを支配していたと思われる。つまり明見谷・堂原河内・楓原くらいは城主本家の直接支配地であったかもしれない。そして、部府から上一体を支配した者、三谷一帯を支配する者、本郷、三根一帯を支配する者、黒瀬平方面、沢田高野方面、小浜宇賀井野方面を支配する者と小河内氏一族によって分割支配され、平素は農耕に従事し、いざというときは使用人(農民)を足軽として引き連れ、戦場に馳せ参じたのではないだろうか。その一族の一人が本郷に城を築こうとしたため、一族の中に別城を構えることは対立の元となるため、本家城主が中止させたことを、一角の怪物のためとしたのではないだろうか。

第4話 その後の小河内氏
 小河内弥太郎の一子は綾が谷において生まれ、男子であるために、可部の福王寺に預けられて養育されている。その後成人して名を彦七郎と改め、小河内に住んだとも言われている。陰徳太平記によれば1559年の石州川上の松山城攻めの中に、「ここに小河内石見の守という者あり。少年の時は出家でいたりけるが、いかに思いけん、還俗して、吉川元春に仕官せり。」とある。
 また、1565年の「富田所に付城並山中鹿之助夜討事」には次のような記述がある。「九月二十日、元就朝臣・元長・隆景二万五千余騎、富田へうち給い、経羅木山に陣を構え・・・・。小河内石見の守という者を、芸州新庄に使いに出され、小河内白潟の満願寺という寺に宿を借りて居けるを、山中鹿之助、この夜子の刻ばかりに、船に乗りて三百余騎、寺中へ乱れ入る。小河内は早く起きあがり、家人共も続いて打ち出でける間、敵たちまち寺中を切り出され、重ねて攻め入ることを得ず。小河内は敵の引くを見て、寺内に兵共を残し、ただ一人敵の舟影に隠れ、山中を討たんと待ち居たり。これをば知らず鹿之助「えい。小河内を討たずして無念な。」と言い言い、何の用心もなく船に乗らんとするところを、小河内舟影よりつと出て、一太刀切り、後ろへ閃りと飛びたりけり。鹿之助、膝口したたか切られながら、心得たりとて抜き打ちに切りたれども、小河内足早に引き取りたれば、歯ぎしりをしてぞ立ち去りける。」

 
その後の小河内については明らかではないが、輝元に供奉して長州へ行ったものか?大朝を超えて、島根県の田所に小河内という地名があるが、小河内氏ゆかりの地かもしれない。